舟橋純の控え帖

まずノートだ、そこに見たもの、思ったことのすべてを書き入れる。そののちに分類して秩序づけ書き写せばいい。思考の簿記であって、そうすれば物事の関連性と、そこから生じる解明とが、きちんとした表現を見るだろう。(『リヒテンベルク先生の控え帖』より)。そういうブログです。

失われた狭さを求めて ――『アメリカ紀行』(千葉雅也)読書録

 大学生のときから、千葉雅也の本は読んでいて卒論の参考にもしたくらいだけれど、働きだしてからはあまりハードな哲学方面の彼の仕事よりも、日々更新されるTwitterの文章を楽しんでいた。
 ひさしぶりにTwitter以外の彼の文章を読んだ。『アメリカ紀行』(千葉雅也著、文春文庫)だ。
 紀行文と言えば紀行文なのかもしれない(あまり紀行ものを読まないので、本作の解説の方の違和感が正直よくわからない)が、わたし自身はアフォリズム集に近い本のように読んだ。
 ところで、なぜ彼はアメリカに行くことになったのか。フランスではなしに? 一応そこはおさえておこう。

 二〇一七年十月一日、僕はボストンのローガン空港に到着した。
 学外研究という制度を利用して、二〇一七年度の一年間は大学の仕事を免除され、研究に集中することが許された。そのうち十月から翌二〇一八年一月末までの四ヶ月間は、ハーバード大学ライシャワー日本研究所に客員研究員として滞在する。日本の現代思想についてアメリカの研究者と議論するために。

アメリカ紀行』(千葉雅也著、文春文庫、p.13)

 日本の現代思想についてアメリカの研究者と議論するためにむこうに行ったということらしい。当時すでに立命館大学の准教授のはずだから、その仕事を免除されて、ということ。日本の現代思想トップランナーなのだからぴったりだろう。
 フランスでの留学経験もあるのだから、海外生活は慣れたものなのかと思いきや、彼は以下のように当惑する。「位置づけ」に対する当惑だ。

 この新たな空間のなかに僕をどう位置づけたらいいのか、わからない。この空間のなかで、自分に固有の喜びをあらためて発明しなければならない。I'm not sure, of my enjoyment, sir.

アメリカ紀行』(千葉雅也著、文春文庫、p.19)

 彼がアメリカに行き、そこで直面した当惑は、位置づけだった。その自分の位置づけは、彼固有の喜びと結びついている。喜び、あるいは享楽と言い換えてもいいだろう。アメリカに到着して二週間は小さなホテルで過ごさなければならなかった彼は、日本での自分の位置づけ、すなわち喜び(享楽)が崩れ、それを立て直す必要に迫られる。

享楽を立て直さなければならない。エンジョイ・ユアセルフ、と自分に言う。だが、肝心のマイセルフがふわふわしている。

アメリカ紀行』(千葉雅也著、文春文庫、p.21)

 空間で自分をどう位置づけるか。この空間での居心地というのは、単に物理的に広い空間でどうこうという話もなくはないだろうが、どちらかというとそこでの生活のリズム、周囲の人々とのコミュニケーションといった問題を含む生活空間のはなしではなかろうか。その生活空間での、固有の喜び(享楽)といってよいようなものがある。ふだんひとはその空間で、自己を楽しんでいる。彼の用語でいえば「セルフエンジョイメント」に浸っているのだ。
 とはいえ彼はもうアメリカに来てしまっているわけで、となるとまたそこでも生活空間にじぶんを位置づける必要が出てくる。彼がそこでもとめたのはコンビニだった。それも、とりあえずそこに行けば生活をリセットできるようなコンビニだ。特別なコンビニのことではない。

 聖なるもの
 日本ならば、ひとつコンビニがあれば、そこでこれまでの生活をすべてリセットできる、という安心感がある。人生で何かやらかしても大丈夫だ。夜逃げしてどこかに流れ着いても、コンビニがすべてを再開させてくれる。すべてが水に流されていく日本的生の逗留地としてのコンビニ。
(中略)何ひとつ不足がないようにと強迫的に配慮しているかのような日本のコンビニの棚には、標準化された生活のミニチュアが見える。
 コンビニでは、人が非人称になる。「なる」というか、非人称に「戻る」場所である。それは「清める」ような作用をもつ場所だとも言える。すべてがリセットされ再開される聖域としてのコンビニ。駆け込み寺のような。
 僕は日本の生活のなかで、コンビニとか和食の儀礼的(リチュアル)な面などから、自覚せずに「聖なるもの」を補給していたのだと気づく。異国に来て、それが補給できなくなっている。
(中略)
 僕がいま何を食べたいのかといえば、聖なるものを食べたいのだ。

アメリカ紀行』(千葉雅也著、文春文庫、pp.27-29)

 逗留地、生活のミニチュア。あの狭い空間、そこで彼は「聖なるもの」を補給していた。それを彼は食べたくなる。聖なるもの、狭さ、逗留地。ホテルから間借りするアパートへ、はたまたあちらの大学からこちらの大学へ、場所から場所へ移動する彼は、まるで方々に、狭さを探し求めているかのようだ。それはその場所に「聖なるもの」を食べに行く旅でもある。
 そう、狭さ。それは聖なるものと結びついている。

 人の生活は、欲望は、ある狭さとの関係で成り立っている。
 ある生活がなければ欲望することは不可能だろう。狭さが欲望の原因だ。この街のアイスコーヒー。あの街のアイスコーヒー。移動とは狭さの喪失である。ゆえに欲望の喪失である。移動のたびに我々は、愛した狭さへの喪の儀式を執り行う。狭さへの喪。世界のなかで我々は、ある狭さを生きる。おお、狭さよ。

アメリカ紀行』(千葉雅也著、文春文庫、p.176)

 この本の中で一番わたしの目をひいたのは、こういった部分、彼がアメリカに滞在しつつ、狭さを求めるその様だった。いったんは日本から離れることで失った狭さを彼が求める、その様だ。
 きっとわたしも、ある狭さのなかで生きていて、その狭さから聖なるものを食べて、自分なりの喜び(享楽)の状態にいるのだろう。仕事に行きながら、遊びに行きながら、ある狭さから、別の狭さへ。狭さを渡り歩くこと。
 
 ひとまず、ちょっとコンビニにでも行くか……。