舟橋純の控え帖

まずノートだ、そこに見たもの、思ったことのすべてを書き入れる。そののちに分類して秩序づけ書き写せばいい。思考の簿記であって、そうすれば物事の関連性と、そこから生じる解明とが、きちんとした表現を見るだろう。(『リヒテンベルク先生の控え帖』より)。そういうブログです。

読んだ本について堂々と語る方法 ――『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール)読書録

 二四五 選択における賞讃
 芸術家は、自分が扱う素材を選び出す。その選択が、素材に対する芸術家の賞讃なのだ。

フリードリヒ・ニーチェ『喜ばしき知恵』(河出文庫、村井則夫訳、p.271)

 二〇〇 書くことや教えることにおける注意。
 やっとものを書いてみたばかりで書くことの情熱をうちに感じている者は、自分がやったり体験したりするほどんどあらゆることから、著作の上で伝えられるものだけをどうにか学びとる。彼はもはや自己のことは考えず、著作家やその公衆のことを考える、洞察を欲するが、しかし自分に役立てるためではない。教師たるものは、たいてい、なにか自分のことさえ自分自身のためにやることができない、彼はいつも自分の生徒のためを考え、どんな認識も、それを教えうるかぎりでのみ、彼をよろこばせる。彼はしまいに、自分を知識の一通路、一般的には手段とみるようになり、それで自己に対する真面目さを失ってしまっているのである。

フリードリヒ・ニーチェ『人間的、あまりに人間的Ⅰ』(ちくま学芸文庫、池尾健一訳、pp.216-217)

 読んでいない本についてコメントや批評を求められたりすることがあるかというと、正直、ない。読書会に参加したこともないし、まわりに読書家がいるわけでもないからだ。ちょっとした読書好きはいるものの、趣味が合わないので話をすることはない。
 そんなわたしが、『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール著、ちくま学芸文庫)を読む意味などあるのだろうか。ないんじゃね?
 正直最初はそう思ったが、予想は見事に裏切られた。
 読む意味はあった。しかし、それは読んでいない本についてどう語るかを知ることにではなく、読んだ本をどう語るか、どう語ってよいのか、その裏付けになる理論を知るという意味が、あった。
 「読んだことがあるなら、語ればいいじゃないか。なんで裏付けになる理論なんかがいるんだ?」
 そういう声が聞こえてきそうだが、コトはそう単純ではない。
 問題はこの「読んだことがある」という部分にある。バイヤールによる「読まない、読んだことがない」の段階分けを見てほしい。

 バイヤールによると、未読の段階にはいくつかあり、
・Ⅰ-1 ぜんぜん読んだことのない本
・Ⅰ-2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
・Ⅰ-3 人から聞いたことがある本
・Ⅰ-4 読んだことはあるが忘れてしまった本

 これらがそれぞれ論じられていく。本のタイトル的にⅠ-1、Ⅰ-3はまだわかる。フィクションの中のこういう状況に立たされてしまった人たちを分析することで、本について語るというとき、人間は実はこういう状況に置かれているんだよ、と説明していく。こういう本について語ることを求められたら、どう窮地を脱出し、状況を自分に有利にもっていけるかという話はちょこっと書いてあるのだけれど、実はそういう味付けは薄く、人間の置かれている一般的な状況について、そこから引き出せる読書概念について主に書かれている。
 ともかく、わたし自身はⅠ-1、ないしⅠ-3についてコメントを求められるような立場に立つことはほどんどないため、そのセクションで語られている読書概念について主に読んだのだけれど、より切実なのはⅠ-2、Ⅰ‐4である。
 これらはわたしの生活実感でも、読んだことがある、と言ってしまう(いや、言っていいはずの)本だ。とはいえ、それを語ってもよいのか、あるいはどう語ったものか、迷うのである。というのも、自分は書かれていることを正確に理解できているのか、あるいは読んだのに忘れてしまっていることがけっこうあって、その状態で語ってしまってよいのか。そういう逡巡が生まれてしまうからだ。
 
 バイヤールはⅠ-2について、ヴァレリープルーストをほとんど読んでいないことを踏まえて以下のように言う。

したがって極論すれば、批評家は、作品に目をつむり、作品の可能態に考えを向けることではじめて、批評の真の対象を感知することができる。それはまさに作品を超えるためである。そして作品ではないが、作品が他の作品と共有しているものを感知する。こうして、あまりに念入りに本を読むことは、あるいは本を読むことじたいが、批評家がその対象を深層において捉えようとするときの障碍となるのである。
 作品と距離をとろうとするこのヴァレリー詩学は、もっとも日常的に見れられるわれわれの読書法のひとつに合理的根拠を与えるものである。すなわち流し読みという読書法だ。たしかに、われわれが一冊の本を手にするとき、それを最初の行から最終行まで読みとおすということはまれである。そんなことが可能であるのかどうかもわからない。多くの場合、われわれはヴァレリープルーストはかく読むべしとした読書法をとる。つまり流し読みをするのである。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』p.62

 本を読み、なにかを書こうとするわたし自身もまたひとりの批評家なのだとすれば、本に沈潜しすぎず、ヴァレリーのように堂々としていればいいのである。なぜなら深入りしすぎることで自分が書くときの障碍となってしまうからだ。最初から最後まできちんと読んだかなど、神経症的に気にしすぎてもしょうがない。いずれにしてもよく読んだ箇所とあまり読んでいない箇所の濃淡ができる、言い換えれば、どう読んでも流し読みにならざるを得ないのだ。

 さらに、Ⅰ-4については、忘れるという側面について以下のようにバイヤールは言う。

 私は、本を読む一方で、読んだことを忘れはじめる。これは避けられないプロセスである。このプロセスは、あたかも本を読まなかったかのように感じる瞬間まで続く。読まないも同然の状態、そんなことなら読まなかったのにと思う状態まで続くのである。この場合、ある本を読んだと言うことは、ほとんどひとつの換喩(メトニミー)である。われわれは、多かれ少なかれ、本の一部分しか読まないし、その部分にしても、遅かれ早かれ、時間がたてば消え去る運命にある。こうしてわれわれは、われわれ自身および他人と、本についてというより、本の大まかな記憶について語るのである。その記憶が、そのときそのときの自分の置かれた状況によって改変されたものであることはいうまでもない。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』p.89

 パリ第8大学教授で精神分析家の教授が「本を読む一方で、読んだことを忘れはじめる」と言っているのだから、ごくふつうの本好きの自分が、読んだ本を完璧に内容を覚えている必要はないし、土台そんなことは無理なんだと、正直ちょっと安心するところがあるし、さらには、その状態で本について語ってもいい、「われわれは、われわれ自身および他人と、本についてというより、本の大まかな記憶について語る」、そういうものなんだと、引用部分は教えてくれる。
 この引用部分に、少し救われるような気がするも、注意しなければならないのは、このような忘却の働きを前提とした倫理、というか、本についての語らいの場で要請される暗黙のルールだ。バイヤールはその語らいの場を〈ヴァーチャル図書館〉と呼びつつ、この空間は暗黙のルールを守らないと続けられないゲームの空間であると言う。

 書物に関する――いや、より一般的に、教養に関する――このコミュニケーション空間を〈ヴァーチャル図書館〉と呼んでもいいだろう。これはイメージ(とくに自己イメージ)に支配された空間であり、現実の空間ではないからである。この空間は、本が本の虚構によって取って代わられる合意の場としてこれを維持することを目的とする一定数のルールに従う。
(中略)
 この暗黙のルールのひとつに、ある本を読んだことがあると言う人間が本当はそれをどの程度まで読んでいるかを知ろうとしてはならないというルールがある。なぜかというと、ひとつには、言表の真実性に関するあいまいさが維持されなくなると、また出された問いにはっきりと答えなければならなくなるとこの空間の内部で生きることはたちまち耐えがたくなるからである。もうひとつは、この空間の内部では、誠実さの概念そのものが疑問に付されるからだ。先に見たように、まず「ある本を読んだ」ということの意味からしてよく分からないのである。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』pp.194-195

 「ほんとうに読んだの?」「ほんとうに最後まで読んだ?」そう問い続けるのは尋問でしかない。そこにこだわりはじめると、本をめぐるコミュニケーション空間、著者の言う〈ヴァーチャル図書館〉が維持できなくなってしまう。そんな空間はあまりに息苦しく、また、「読んだ」ということが、完全な記憶ということに結びつけられてしまうからだ。そんな完璧な記憶を保つような仕方では、誰も本を読んでいないのである。バイヤールの「このあいまいな社交空間は学校空間の対極にある」(p.199)、「読書というものは真偽のロジックには従わないもの」(同)ということばは、読者をそういった息苦しさから解放しようという意図が感じられる。

 では、他者と書物について語らう、真偽が問題にならないような、本についての語らいの空間で、わたしが目指すものはなにか。流し読みでも飛ばし読みでもかまわない、人づてに聞いただけでも、噂を聞いただけでもかまわない、その本からわたしが目指すもの、あるいは無意識のうちに目指しているものはなにか。バイヤールは、ワイルドを引きつつ、それは創造だと言う。バイヤールの引用した部分が、エピグラフに引いたニーチェの言葉と響きあっているので、ついでにここにも引いておこう。「芸術家としての批評家」という作品から、ギルバートという登場人物(作者の考えを代弁していると考えられる)の言葉だ。

両者[=芸術と創造]を対立させることに確たる根拠はないさ。批評能力なくして芸術作品と呼ぶに足るようなものはありえないからね。きみはさっき、芸術家がわれわれのために人生を表現して、それに瞬間的な完璧さを与える、そのためのすぐれた選定の精神と精妙な選択本能について話したけど、その選定の精神、その明敏な省略の手管こそ、じつは批評能力のもっとも特徴的な情態のひとつなんだ。この批評能力をもたない者は、芸術において何ひとつ創造できない。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』p.252

 選ぶこと、その選びだす能力こそが批評能力の大切な部分なのだ。「批評も一種の芸術である」(p.252)という言葉があるが、であれば、わたしがある本を選び、その本の一部しかおぼえていないとしても、そしてそれについて語るとしても、それでいいのである。それがわたしの批評能力を示す、あるいは、それがわたしの創造なのである。わたしたちが、読んだ本について断片的にしかおぼえていないというのも、裏をかえせば断片的に、つねにすでに「選び出している」ということなのかもしれない。わたしたちは無意識的に批評家であり、無意識的に芸術家である。
 では、批評家たるわたしたちが対象にしているものは、結局なんなのか。それは自己である。

批評は魂の声であり、批評の深層における対象はこの魂であって、文学作品ではない。作品はこの探求を支える過渡的な対象であるにすぎない。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』p.261

作品を自己についての探求のよすがと捉え、手にすることのできる数少ない要素から出発して、またそれらの要素がわれわれの親密でかけがえのない部分について教えてくれることに目を配りながら、自分の〈内なる書物〉の断章を書くよう試みるにしくはないのである。耳を傾けるべきは自分自身にたいしてであって、「現実の」書物ではない。後者がときにモチーフとして役立つことがあってもである。そして自分を書くことに専心し、そこから注意を逸らされないよう気をつけなければならない。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』p.265

 ある意味では、ある本を手に取ったその瞬間から創造は始まっているのかもしれない。本から取り出す要素には、いろいろな選び出し方があると思うが、そういう選び出し方を語るなかで自分を語ること。「その本のなかで重要だと思った」ではなく、「自分にとってどうなのか」を語ること。力点はあくまで自分にある。バイヤールは「自伝を書くための口実」とまで言っているが、そういうつもりで選び出してよいのである。それが、わたしがこの『読んでいない本について堂々と語る方法』から選び出した、「読んだ本について堂々と語る方法」である。