舟橋純の控え帖

まずノートだ、そこに見たもの、思ったことのすべてを書き入れる。そののちに分類して秩序づけ書き写せばいい。思考の簿記であって、そうすれば物事の関連性と、そこから生じる解明とが、きちんとした表現を見るだろう。(『リヒテンベルク先生の控え帖』より)。そういうブログです。

アフォリズム集(No.51~No.60)

 なにか一つでも、お気に入りを見つけてもらえれば幸いです。

 前回は以下からどうぞ。

junjacques.hateblo.jp

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51. 地続きの意識。

 普段の日常生活やSNS上での言葉の伝え方、受け取られ方、選び方に無頓着な人が、文学や批評、哲学に興味を持つのは、いわんや自分で作品を書いてみようと思うならば、それは言わば、普通自動車の教習一段階でいい加減な走行しかできない人が、路上でプロドライバーのような走り方を目指すことに等しい。共通するのは、地続き意識のなさだ。

 SNS上でいい加減な言葉使いをしているように見受けられたら、別の場所で書かれた文章の言葉が、なぜ信頼できるはずがあろうか。

 堅苦しい文章で書かれているから信頼できる、自分の言葉で語っている、というわけでもない。SNS上では口語的な言葉使いのほうが伝わりやすい面があるから、それならそれでよい。冗談ばかり言っていてもいい。一線を越えていなければ、愉快な人なんだなで済む話だ。

 投稿を書いては消して、書いては消してと繰り返しているのはなぜか? 読まれても問題がないなら消す必要はないはず。後から自分で読んだ時に「消したほうがよい」と思ってしまうようなことを、書いて投稿してしまう、その人はそういう人だということ。であれば、その人が別の場所で書いた文章はというと……。

 「Twitterは考えを垂れ流す場所」だと思っている人は垂れ流すような言葉使いになるだろう。さて、その人が別の場所で書いた文章はどうか? 

 

52. 耐えられない。

 猫に声をかけても返事がない、喉が渇いているのに自販機がつり銭切れで販売中止、にわか雨に降られて干していた布団がびしょ濡れ。これらには一切意味がない。誰も責められない。わかっているのに、人はそのことに耐えられない。なんの意味も予兆もないことに耐えられない。世界に存在する無意味なことが、私たちを圧迫する。この無意味の圧迫から、いかに多くのものを作り、逃げようとしてきたことか。私たちは、無意味なことに耐えられない。

 

53. 助手席で感じる怖さ。

 ブレーキがカックンブレーキになってしまったことに対して謝ってくる教習生がいる。かわいいものだ、大したことはない。しかしブレーキを踏めない、踏むことをためらう教習生もいる。それがわかると、助手席での恐怖心は一気に跳ね上がる。運転できないことにほぼ等しいから。

 

54. 何ページ使ったか。

 誰かの本を題材に文章を書いたとしよう。さて、その本全体の何ページを使ったか? よほど詳しく論じるのではない限り、三割も使っていないのではなかろうか? もっと使うべきだ、と言いたいのではない。そんなものだ、というのが私の意見というか、実感なのだ。

 ワイルドは、『芸術家としての批評家』という対話篇形式の文章で、ある登場人物に「本一冊にかける時間はせいぜい10分だ」と発言させている。10分! 読んだ当初は、極端すぎやしないかと思ったが、今は、もしかしたらそれは一面正しいのかもと思い始めている。時間をかけすぎてはいけないのだ。

 その本全体に目を通して理解するなら2時間も3時間も、あるいはそれ以上にもなってしまうだろう。けれども、自分がその本について文章を書くのに必要な数ページを探り当てるだけなら、そんなに時間は必要ないだろう。10分で済むかはわからないが……。

 

55. 書き方と読み方。

 「どう書けば読者に言いたいことが伝わるか」と「どう読めば筆者の言いたいことを理解できるか」は緊密に連動する。基本的に、読者は自分の読解の仕方から、自分の文章の書き方を逆算する。だから、両者は表裏一体の関係にある。読み方に無関心ならば、書き方にも無関心だということ。

 逆に、書き方への無関心は、読み方への無関心に等しい。たとえば、言葉の引用元や出典を明示しない人は、普段からそれらを気にせずに文章を読んでいるのだろうと推測できる。あるいは、書くときに接続詞を使わない人は、文章の中に論理を読み取っていないのだろう、と。

 

56. アフォリズムへの理論の適用。

 アフォリズムをひとつの文学ジャンルと認めるならば、詩や小説と同じように、アフォリズムにだって批評理論を適用してはいけない理由はない。

 

57. アフォリズムの配列

 ひとつひとつの格言や断章がどう配列されているかに関して、配列の仕方にいくつかのパターンがある。あることを述べたアフォリズムをAとして、それとは別の内容を述べたものをBとしよう。増やす場合はC、Dとする。まずはA、Bと、ふたつ並べられている場合について。

 一つ目、〈並列〉。これはAとBが無関係の場合。おそらく一番多い並び方。この場合、A、Bは無関係なので、順番は入れかえてもよい。B、Aとしてもよい。あるいは連続させなくても、A、○、○、○、Bとしてしまってもよい。内容的に無関係なのでどこに置いてもよい。

 二つ目、〈進展〉。A→B。Aの内容を進展させてBの内容に繋げる。これもよくある。この場合、順番を入れ替えてはいけない。実質的に二つで一つのような扱いになる。離して配置することは内容的にできない。

 三つ目、〈同内容〉。A=B。内容的に同じ事を述べているパターン。順番の入れ替え可能で、離して配置することが可能。定義上、片方を削除してしまっても問題はないことになるが、作者がなんらかの意図を込めて残していると考えられる。A、Bが内容的に同内容であるときには、単に少し表現を変えただけの場合もあるが、より説明的に「具体例」→「命題」である場合と「命題」→「具体例」の場合が考えられる。離して配列してしまうとわかりづらくなってしまう。順番はA、Bどちらが先でもよいが、離して配列するのはよくないだろう。

 

58. アフォリズムの扱う世界。

 アフォリズムは架空の世界については扱わない。作者が見た「この」世界についての言葉がアフォリズムだ。その点詩や小説とは当然異なる。アフォリズムの語り手のほとんどが作者本人であるのはこのためだ。

 

59. ぶら下がってるキャラ。

 女性がカバンか何かにキャラもののキーホルダーをぶら下げていると、ついつい本人と似ているかどうか気にしてしまう。なぜか、本人とキャラがどことなく似ている場合が多い気がする。自分と似てるキャラを好きになりやすいのだろうか?

 

60. 5月28日。

 5月28日、家族と釣りへ。館山から新舞子海岸へ。釣果上々。海辺をひとり、下を向いて歩きながら、形の綺麗な石を拾う、眼鏡をかけた若い女性がいて、ゆっくりゆっくり、私の側を通りすぎていった。陽に照らされた海の強くなる波が彼女の足をさらおうとするのをトテトテと避ける様に、見入っていた。