舟橋純の控え帖

まずノートだ、そこに見たもの、思ったことのすべてを書き入れる。そののちに分類して秩序づけ書き写せばいい。思考の簿記であって、そうすれば物事の関連性と、そこから生じる解明とが、きちんとした表現を見るだろう。(『リヒテンベルク先生の控え帖』より)。そういうブログです。

アフォリズム集(No.21~No.30)

 今回は教習指導をやりながら考えたことを中心に。

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21. 不要な拷問。

 今の時代、乗る予定(乗らせる予定)もないのに、子供にMT免許を取らせるのは拷問でしかない。

 

22. だいたい落第。

 教習指導員として、路上教習しながら一般車の合図タイミングを見ると、30メートル手前で合図が出ている車など皆無に等しい。運転試験を受けさせてみたい。だいたいの人は落第するだろう。では、なぜ運転できているのか?

 

23. 教習指導員だからといって。

 教習指導員だから車の運転が上手いはずだというのは誤りである。下手とまでは言わないが、上手いとは言えない人が指導員をやっていたりもする。それで仕事が成り立ってしまったりする。ただし、車の運転の仕方をどう教えるかは知っていないと、この仕事は絶対にできない。この仕事に必要なのは教育能力なのである。

 

24. 教えているからといって。

 自分は自動車の運転を教えている。〈だから〉自分の運転は上手いはずである、と考えるのは誤謬推理だ。

 

25. 説明間違い。

 人が他人に対して自身の行動を説明したとする。それが他人から見て「嘘の説明だ」と思われることがある。このとき、説明をした人は意識的に嘘をついたのだろうか? そうとも限らない。自分の行動を説明する「自分自身のことば」がまちがっていることに当人が気づけていないのだ。

 

26. 手段としての賞賛。

 ほめられると、人はそれが良いこと、正しいことなのだと思うものだ。だからもっとやろうとする。教育者はその単純で、卑近ですらある事実を利用する。ある行い、行動をほめる、そうすることによってその行い、行動を強化する、すなわち、くりかえしその行動が出るようにする。心理学的には、これを「学習が成立した」と言う。

 

27. あなたの運転の鏡。

 教習指導員の教習生に対する厳しさは、あなたの危険な運転に対する厳しさであって、あなた自身に対して厳しいのではない。言いかえれば、その厳しさは属人的ではない。

 人の性格を矯正するのは、教習指導員の職務の範囲外である。そうではなく、性格にあった安全な行動を取れるように指導するのが仕事である。道路交通、すなわちルールを教えるだけではなく、道徳的なことを教える側面も職務の範囲内にある。それは否定できない事実だ。しかし、人の性格は直せない。

 

28. 注意しなくなる。

 教習中、教習生の運転に対して注意をすることがある。何度か注意して、その行動が直ればもうそれ以上注意する必要はなくなる。改善できたということ。何度か注意して、それでも直らないと、それ以上注意するのをやめる。言っても無駄だからだ。指導員の変化はこのとき同じだ。

 完全に改善をあきらめるわけではなく(それだと職務を放棄することになりかねないので)、言い方を変えてみたり、言葉以外の方法で矯正を試みることはある。それでも、なかには指導員の手が尽きることはある。そうなると、もう何も言わない。自分で気づいてもらうよりほかないからだ。

 

29. 運転の分析。

 自分の運転を分析する技術が、そのまま他人の運転を分析する技術になる。逆もまたしかり。

 

30. なかなかうまくならない。

 クルマの運転が、一定レベルからはなかなかうまくならないように、クルマの運転を教えることも、ある地点からは、なかなかうまくならない。