アフォリズム集(No.11~No.20)

前回に引き続き、自作アフォリズム集です。
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11. 来年の今頃は。
来年の今頃は、自分はどんな本を読了して、どう考えが変わっているのだろう。楽しみだ。今年は哲学書をけっこう読むことができた。アウグスティヌス『告白』、プラトン『リュシス』、ニーチェ『喜ばしき知恵』、『人間的、あまりに人間的』第1巻、スピノザ『神学政治論』第1巻。
※挙がっている書名は2024年に読了した本。
12. 哲学なしで。
哲学なしで物事をすませることができるなら、それに越したことはない。ニーチェは、哲学者というのは変わり種であって、少数の人間がそうなるのだという旨をどこかに書いていたと思うが、その通りだ。ふつうのひとはなしで済ませている。
13. 考えさせられる。
好きで頭を悩ませる人間はいない。必要に迫られて、はじめて人はものを考えはじめる。必要がなければ考えず、頭を悩ませることはない。習慣、慣習通りに行動し、考えることができるなら、そのほうが手間がかからず労力が省ける。
逆に言うと、考える必要があるということは、何かを変える必要があるということ。習慣、慣習、あるいは伝統を。すなわち、人が行動し、考えるのを楽にするために先人によって考えられたものたちを、変える必要があるということ。だから、そのとき考えるということには、なんらかの方向性が生まれる。変化させる方向性が。
方向性、それは、基本的には人が考え、行動することを助ける方向性であるはずだ。
ほんとうにその方向性に変わっていくことで、より人は楽になるのだろうか。そういう疑念が生まれるのは当然のことだろう。以前の習慣、慣習、伝統に則って生活できていたのなら、それらを変化させる必要を感じていない人たちだっているだろうから、そういった人たちは変化に対して消極的になる。
あるいは逆にこういうことも起こりうるだろう。すなわち、知らぬまにどんどん変化していくあるものがある。それに対して、変化しないように抵抗する意味合いで、思考がはじまる、ということが。これは、変化に対して以前の習慣、慣習、伝統を保持するために、思考がはじまるということ。
変化を促す方向での思考にしろ、保持する方向での思考にしろ、そのとき把握しておかなければいけないのは、以前の習慣、慣習、伝統である。それがわからなければ、どちらの方向に舵を切るべきなのか、そもそもわからない。思考は、そして哲学は、そこからはじまると言える。
何が問題になっているのか、それをどう変えていきたいのか(あるいは変えずにおきたいのか)を把握すること。その把握からこそ、思考、哲学ははじまる。何も問題になっていないなら、そもそも考える必要はない。変化していってもその変化が歓迎すべきものであり、十分適応可能なら、その時もやはり同じ。
14. 勘違いに注意。
進歩主義者は習慣、慣習、伝統を変化させることに積極的で、保守主義者はその逆というのはかならずしも正しくない。哲学者が反動的であることもありうるし、保守主義者が革新的であることもある。わたしがここまで書いてきたことは、進歩/保守の区分と重ならない。
15. 空白を設ける。
結局何が言いたいのか、たしかに私が書ききるべきだろう、箴言という形式においても。それでも、読者がそこからさらに、箴言を噛みしめて先に進めるよう、空白を設けること。これはレトリックの問題だ。
16. ニーチェのレトリック。
あまり注目されないが、ニーチェは非常に意識的なレトリシャンだ。彼の箴言の結論部分には、読者の考えを促すような空白が設けられている場合がよくあるが、これは黙説法というレトリックにあたる。あるいはツァラトゥストラにみられるような、概念的人物(ドゥルーズ)。
17. ニーチェの意識した著者たち。
ニーチェの文章に感銘を受けるだけでもよいが、彼が誰を意識して自身の文章を書き綴っていたのかを知ることで、より文脈を理解して彼の文章を理解することができるだろう。『人間的、あまりに人間的Ⅱ』にあるアフォリズムでそれがわかる。
四〇八 「冥界の旅」。
――私もやはり、オデュッセウスと同じように、冥界へ行ってきた、そしてこれからも度(たび)しげく行くだろう。そして、幾たりかの死者たちと語り得るためには、私は牡羊を犠牲(いけにえ)にしただけではなく、私自身の血をも惜しまなかった。犠牲を捧げるこの私を受け入れてくれたのは四組の人たち、つまり、エピクロスとモンテーニュ、ゲーテとスピノザ、プラトンとルソー、パスカルとショーペンハウアーであった。私がこれまで長らく孤(ひと)りで旅をつづけてきたとき、私はいつもこの人たちと自分を対決させずにはいられなかった。私は、この人たちから私の考えの当、不当を教えてもらいたいのだ。私は、そのとき彼ら自身が互いに相手の当、不当を論じ合うさまを、耳をこらして聞きたいのだ。私がおよそ何を語り、何を決定し、何を自分のため、またひとのために考案するにせよ、いつも私は、あの八人のひとに眼をくぎづけにしているし、またあの人たちの眼が私にくぎづけになっているのを見る。――生きている人たちにこう言っては申しわけないことだが、この〔生きている〕人たちときては私には時折影〔亡霊〕のように見えるのだ、すっかり蒼ざめて不機嫌に、すっかりおちつきをなくして、しかもああ! 生をものほしげに眺めているように見えるのだ。ところがそういうとき、あの人たちは、まるでいまや、つまり死んで後は、決して生に倦むことなどあり得ないかのように生き生きと見えてくる。だがこういう永遠の生気こそが大切なのだ。いわゆる「永生」とか、またおよそ生活などに何の意味があろう!フリードリヒ・ニーチェ、『人間的、あまりに人間的Ⅱ』、ちくま学芸文庫、p.255
ここにあげられている8人の著書たちのものの考えと、ニーチェ自身の考えは必ずしも同調しない。引用にもあるように、ニーチェが取り入れ、かつ対決してきたひとたちなのだ。とくにパッと見ルソーなんかニーチェとは全然合わないだろう。名前があがってるだけでもけっこうわたしは意外だった。
18. ニーチェの褒めた著者たち。
ニーチェが外国の著者ではなく、自国のどんな文筆家の書物を読んで、どれを良いものと認めていたのか。これもまた彼を知るのに参考になるだろう。同じく『人間的、あまりに人間的Ⅱ』より、
一〇九「ドイツ散文の宝」
――ゲーテの諸著、とくにおよそ存在するドイツ書のうち最良の書であるゲーテのエッカーマンとの対話を除いたなら、いったいドイツの散文文学のうちで何が、繰り返し読まれる値打ちあるものとして残るだろう? リヒテンベルクの〈箴言集〉、ユング・シュティリングの〈自伝〉の第一巻、アダベルト・シュティフタ―の〈晩夏〉、それにゴットフリート・ケラーの〈ゼルトヴィーラの人々〉、――そしてこれで当分は種切れであろう。フリードリヒ・ニーチェ、『人間的、あまりに人間的Ⅱ』、ちくま学芸文庫、p.352
19. ニーチェ主義者へ。
ニーチェは、彼が書いたことばを一から十まですべて信用してくれ、などとは書いていない。ニーチェに忠実でありたければ、彼に従いすぎてはいけない。
※『ツァラトゥストラ』、第一部「贈り与える徳」3を参照
20. 神の死の日本での意味。
ニーチェの言う神の死は、キリスト教の神を皆信じなくなってしまったということ。そのことをどう受け止めるかが彼の哲学の柱を成す。では日本では? 神は死んだのか? 八百万の神を誰も信じなくなったことが神の死か? 違う。神は死んではいない。神ではなくなっただけだ。
※『喜ばしき知恵』一二五「狂乱の男」参照