舟橋純の控え帖

まずノートだ、そこに見たもの、思ったことのすべてを書き入れる。そののちに分類して秩序づけ書き写せばいい。思考の簿記であって、そうすれば物事の関連性と、そこから生じる解明とが、きちんとした表現を見るだろう。(『リヒテンベルク先生の控え帖』より)。そういうブログです。

アフォリズム集(No.1~No.10)

 「アフォリズム」というジャンルをご存じでしょうか。エッセイよりも短い断章形式の文章や、格言、箴言と言われるものです。私はアフォリズムを読んだり書いたりするのが好きです。以下に掲載するのは、私がX(旧Twitter)で書いているアフォリズムに加筆訂正などを加えて、まとめたものです。自分で書いたアフォリズムは、半ば自分への戒めみたいなものですが、ご笑覧いただければ幸いです。

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01. アフォリズムのかなめ。

 アフォリズム箴言)という形式のかなめは観察である。だから、ニーチェアフォリズムの敵は友人たちであると言ったのだ。

※『人間的、あまりに人間的Ⅱ』、p.103、「格言の読者たち」参照

 

02. Twitterは手帳。

 一気呵成に文章を仕上げるよりも、ここ(=Twitter)で140文字ずつ書いたことをあとで箴言集にまとめればよいのではないかというアイディアを思いついた。ニーチェも各地を放浪しつつ手帳に書きためておいたことを、あとで箴言集にまとめたように。真似をしよう。字数的にも、作りたいもの的にもちょうどいいな。

 

03. アフォリズムは未開拓。

 アフォリズム箴言)というジャンルはまだまだ開拓する余地がある。元々は聖書に由来するジャンルなので、日本人にはあまりなじみのあるものではない。小説、エッセイ、評論、詩は表現の形式として定着した。アフォリズムはまだまだである。

 小説が一番娯楽として定着しているが、詩や短歌、俳句みたいなみじかい文学は、通勤通学時にポケットにしのばせるのにちょうどよいのだから、もっと流行っていいと思うのだけれど。わたしが販売部数にうといからよくわかっていないだけで、意外と読まれているのだろうか……。

 

04. 三人共感させてみよ。

 あなたの文章を読んで、何人が納得したり共感したりしてくれるだろうか? 一万人、十万人、はたまた後世の人たちが長く読みついで、数えきれないくらいの人がそうしてくれるだろうか? 大それたことを妄想しないように! 三人文章で共感させてみよ。それで十分ではないか。

 

05. 本好きにあるまじき問い。

 ほんとうは、ひとはそんなにたくさんの書物を必要としていないのではないか。飽き性の問題はあるものの、時間を置いて再読すれば、またその本のあたらしい読み方を見つけることもある。ただ、だとすると新しく本をどんどん書いて世に出したい人には、こういうことを言うと少し申し訳ない気もする。

 万物流転、世の中は変転し、ひとびとの必要としている書物は刻刻と変わってくるだろうから、新しい本が世に出る意味はもちろんある。それはそうだ。しかしながら、個人の実存にとってそんなに大量の本に、いったいなんの意味があるのか。

 

06. 想定読者。

 基本的に、いにしえの西洋の著者たちが書いたものは、日本人たる私たちにはなんの関係もない。私たちは彼らが想定していた読者ではない。

 彼らが想定していなかった者としての、日本人、それも明治時代ですらなく現代に生きる日本人であるわたし。わたしはどんな読者なんだろう? 世界中の文物がインターネットを介して容易に手に入れられるようになった世界に生きるわたし。民主主義が中途半端に根付いた国に生きるわたし。

 わたしはキリスト教信者ではない。もっと言うならキリスト教文化圏で生まれ育った人間ですらない。そうだったらよかったのに、とすら思わない。

 

07. 何を読んだかではなく。

 人は、他人が何を読んだのかなどあまり気にしないものだ。何を読んだかでその人の考えや思いはわからないからだ。どの程度読んだのかさえはっきりしない。他人はあくまで、その人の書いた文章でその人を知る。

 

08. 本の読み方の逆説。

 「この本はどこから読みはじめてもよい」と、読む順番の指示がある本は、一番始めから読み始めても問題ない。それがない本は……。

 

09. 問題の作りかたのまずさ。

 哲学を学ぶとき、一番丁寧に学ぶべきは、問題の作りかただ。たいていのひとは問題を作り損なう。抽象的で、大きすぎる、人生の実感から生まれえないような問題を作ってしまう。

 

10. はるか彼方の人。

 なんらかの哲学書に啓発されてものを書くのはかまわない。哲学の探求を行い始めるのは、みんなたいていある一冊の本からだろう。その著者が、あなたの属する伝統からはかけはなれた場所と時代の人だということを理解しておくこと。それでもなお、その人の遺産を継承すること。