舟橋純の控え帖

まずノートだ、そこに見たもの、思ったことのすべてを書き入れる。そののちに分類して秩序づけ書き写せばいい。思考の簿記であって、そうすれば物事の関連性と、そこから生じる解明とが、きちんとした表現を見るだろう。(『リヒテンベルク先生の控え帖』より)。そういうブログです。

ただ生きよ ――『シーシュポスの神話』読書録②

 さて、前回の記事の続きを書いていこう。

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 前回の記事の話を要約する。記事を書き始める前に見つけた三島由紀夫のインタビュー映像から、私は、『シーシュポスの神話』が書かれた背景には、戦争を背景にした身近な人の死と、のうのうと生きている自分の生の対比、不釣り合いがあったのではないかと考えた。三島が、戦後において英雄的な死は日本にはない、と言っていたが、おそらくそれはフランスでも同じだったのではないか。『シーシュポスの神話』を読み解くためのカギは、そこにあるのではないか。

 以上が、前回の記事で私が言いたかったことの要約だ。

 アルベール・カミュによる哲学的エッセイ『シーシュポスの神話』は、カミュが二十九歳の時の作品だ。同年に小説『異邦人』も発表している。『異邦人』、『シーシュポスの神話』、そして戯曲『カリギュラ』の三つで「不条理三部作」を成している。

 カミュはこのように、小説、哲学エッセイ、戯曲の三部作で「不条理」を表現し、後年は『ペスト』(小説)、『反抗的人間』(哲学エッセイ)、『正義の人々』(戯曲)の三つから成る「反抗三部作」を書いた。哲学と文学を、このように融合しようとした人だった。

 それにしても、『シーシュポスの神話』の書き出しは、他の哲学書を読んだことがある身からすると、ちょっとギョッとする書き出しだ。なにせ、「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」から始まるのだから。この世界に神はいるのか、とか、愛とは何か、無意識とは何か、とかでもない。カミュのテーマは、自殺なのである。

 真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えなければならぬ。

『シーシュポスの神話』(新潮文庫アルベール・カミュ、p.12)

 なんて切迫した問いかけだろうか。哲学で一番大事な問題は「自殺」だというのだ。ただ、自殺の仕方がどうこうといったことではなく、「自殺」を問題にするとはどういうことかが、すぐ次の文章で言い換えられている。「人生が生きるに値するか否か」。これが、『シーシュポスの神話』で扱う根本問題なのだ。

 いやでも、話を進めるにつれて、人生が生きるに値しない、今すぐ死ぬべきだとなったら? 下手をすると自殺を哲学的に賛美しだすんじゃないかと、読んでて正直冷や冷やするが、読み進めていくと、彼の立場はむしろ強烈なアンチ自殺のほうにあるということがわかる。安心していただくために、それを示す部分を引用しておこう。

 自殺は不条理への同意を前提とするという点で、まさに反抗とは正反対である。自殺とは、飛躍がそうであるように、ぎりぎりの限界点で受け入れることだ。いっさいが消尽されつくしたとき、人間はその本質的歴史へと帰る。自己の未来、唯一の怖ろしい未来をかれは見わけ、そのなかへと身を投じていくのだ。自殺はそれなりに不条理を解決してしまう。自殺は不条理を同じひとつの死のなかに引きずりこむ。だがぼくは知っている、不条理が維持されるからといって、不条理が解決されるということはありえないのだということを。不条理は、死を意識しつつ同時に死を拒否することだというかぎりにおいて、自殺の手から逃れ出てしまうのだ。

『シーシュポスの神話』(新潮文庫アルベール・カミュ、pp.96-97)

 わかりやすく嚙み砕いて言えば、自殺は不条理を受け入れてしまうことであり、不条理を生きようとする人間は自殺などしようとしないということだ。「不条理が維持されるからといって、不条理が解決されるということはありえない」とカミュは言う。生きている限り人間は不条理な状況に置かれざるをえず、死ぬまでそれは解決されない。ひっくり返して言えば、死ねば「それなりに不条理を解決してしまう」。不条理を解決しようとするのではなく、不条理に「反抗」しろ、というのが、カミュの立場なのだ。不条理を維持し、かつ反抗する態度を維持することによって、自殺からは遠ざかるのだ、と言っている。

 この本で一番むずかしいのが、この「不条理」という言葉をどう解釈するか、ではないだろうか。というか、私にはこの一番のキーワードである「不条理」という言葉の解釈が一番むずかしかった。

 そこで、私は前回の記事で記した補助線を使いたいと思う。つまり、冒頭にも述べた「戦争を背景にした身近な人の死と、のうのうと生きている自分の生の対比、不釣り合い」である。戦争で戦い、死んでいくこと。それは、残された人々からすれば、国のために立派に戦って死んでいくことであり、とてもじゃないが、無駄死にだったなんて言うことはできないのだ。どこの誰とも知れない人が戦って死んだのならば、まだ一歩引いて考えることができるのかもしれない。しかし、身近な人が兵隊に取られて、戦場で戦死したとしたら? その人の死は強烈に、残された私たちに訴えかけてくるものがあるだろう。

 そして戦争が終ったら、残された人々はどう思うだろうか。前回の記事の最後で、私はこんな疑問を書いた。「この不釣り合いに直面したとき、人は自分の死を、自分の死のあるべき姿を、どのように考えてしまうのだろうか?」。おそらく、残された人々は、自分も、何かのために戦って死ぬべきなのではないか?と考えるのではないだろうか? 私には、そう思えてならないのだ。いわば、国のために戦って死んでいった人々の死と、自分自身の死の釣り合いを取ろうとするのではないか? そうしないと、戦死していった人々の死が、あまりにも報われないものになってしまうからだ。

 戦死していった人々はたまたま兵隊に取られて死んでいった、自分はそうならないで生き延びられた。そのように、戦死していった人々の死を、たまたまの、偶然の産物だと考えてしまうと、戦死していった人々が、あまりにも可哀そうではないか。その人だって、お国のためとはいえ、死にたくはなかっただろう。当たり前だ。たまたま選ばれたのがその人だったなんて、まるでロシアンルーレットで生きるか死ぬかが決まってしまったとでも言うかのようだ。そんな馬鹿げたことがあるだろうか。そのように考えてしまうと、その戦死していった人々の死に対して筋が通らなくなってしまう。それこそまさに「不条理」(absurde)と表現すべきことにほかならない。

 さて、もしここまでの考えがある程度当を得ているのならば、戦後生き延びた人々の考えていたことに、少し近づけたのではないだろうか。戦後生き延びた、残された人々は、「自分も何かのために戦って死ぬべきなのではないか」と思っていた。すなわち彼らの脳裡にあったのは、身近な人の死に照らされた自分自身の死だったのだ。なぜなら、そのように考えないと、生きている自分自身の状況が「不条理」なものとなってしまうからだ。

 ここまでを踏まえてカミュのメッセージを解釈してみると、彼の意図がもう少しわかりやすくなってくる。カミュはまさに戦後生き延びた人々に対して、この不条理な状況を、不条理としてそのまま認めて生きよ、と言っているのだ。「自分も何かのために死ぬべきなのではないか」と考えずに、ただ生きよ、と。だから、『シーシュポスの神話』の冒頭で、自殺こそが問題だと言ったあとに、カミュはこのように言うのである。

 地球と太陽と、どちらがどちらのまわりをまわるのか、これは本質的にはどっちでもいいことである。ひとことで言えばこれは取るにたらぬ疑問だ。これに反して、多くの人びとが人生は生きるに値しないと考えて死んでゆくのを、ぼくは知っている。他方また、生きるための理由をあたえてくれるからといって、さまざまな観念のために、というか幻想のために殺しあいをするという自己矛盾を犯している多くの人びとを、ぼくは知っている(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬためのみごとな理由でもあるわけだ)。だからぼくは、人生の意義こそもっとも差迫った問題だと判断する。

『シーシュポスの神話』(新潮文庫アルベール・カミュ、p.13)

 引用部分でカミュは、なんらかの観念や幻想のために殺し合い(=戦争)をしている人々を挙げている。その観念や幻想を実現しようとして生きること、それはつまりその観念や幻想に殉じて死ぬということなのだ。死ぬ理由と生きる理由が、ここではコインの裏表の関係になっている。これが分かれば、カミュのこれ以降の論述の運びが十分予測できるだろう。引用全体を裏返して言えば、カミュは、「人生はただ生きるに値する」「観念や幻想のために生きようとするな(=死のうとするな)」ということを言おうとしているのだな、とわかる。何かのために生きるのではなく、ただ生きるのである。

 何かのために生きるのではなく、ただ生きる。これは簡単なことでは到底ないだろう。ただひとまず、私はこのカミュのメッセージを受け止めておこうと思う。難しいとは、思うのだけれども……。