舟橋純の控え帖

まずノートだ、そこに見たもの、思ったことのすべてを書き入れる。そののちに分類して秩序づけ書き写せばいい。思考の簿記であって、そうすれば物事の関連性と、そこから生じる解明とが、きちんとした表現を見るだろう。(『リヒテンベルク先生の控え帖』より)。そういうブログです。

生と死の不釣り合い ――『シーシュポスの神話』読書録①

 『シーシュポスの神話』を読み、いつも通り、さてどんなことを書こうかと考えていたところ、今日、こんな動画に出会った。

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 生前の三島由紀夫のインタビュー映像である。この映像の中で、三島は、敗戦の詔勅を親戚の家で聞いたとある。聞いた際には、勤労動員先の海軍工廠を、熱を出して休んでいた時だった、と言っている。詔勅を聞いた後は、自分の生きている世界が崩壊するものだと思っていたが、それでも「周りの木々が、緑が、濃い夏の光を浴びている」。日常生活はそのまま続いていったのである。

 世代的には『シーシュポスの神話』の著者、カミュ(1913‐1960)の方が、三島由紀夫(1925‐1970)よりも少し上だが、近いところにはいる。もしかして、二人が抱いていた感覚には、何か近しいものがあったのではないか。そんなことを、ふと思ったのだ。

 仮に自分が、自国を巻き込んだ戦争の時代にいるとしてみよう。親しい友達が敵国との戦闘に巻き込まれ、戦死したとする。こういう場合、思想が右とか左とか言っている場合ではない。「友達は自国のために、立派に戦って立派に死んだのだ」と、それ以外何が言えようか。そうして戦局が続くのならば、次は自分が徴兵されて、戦って死ぬかもしれないと思うだろう。昔の人だろうと現代の人だろうと変わらない、みんな死ぬのは嫌だから、兵隊に行きたがるものではない。それでも状況によっては、覚悟を決めなければいけない。戦争中は、そういうものだろう。拒否すれば非国民扱いされてしまうのだから。

 そんな中、覚悟を決めたとしよう。俺はこの国のために戦って死ぬんだ!と決めたとする。「自国のために」という大義名分を持って死にに行くのだ。三島は動画内で、現代にはドラマティックな死、英雄的な死はないと言っているが、逆に言えば、戦争に駆り出されて殉死してしまったら、それはまさに「ドラマティックな死」、「英雄的な死」と言わずしてなんだろうか。それをどうでもいい、無為の死とは言えないだろう。残された人々からすればそういうことになる。戦って死んでいった本人がどう思っていたのかはまた別の問題である。

 ここで私が問題にしたいのは、残された人々がその死んでいった人々の死をどう捉えるかであり、かつ、戦って死んでいった人々の死から、残された人々が、自分たちの死をどう考えたか、である。おそらく、残された人々は、戦争で死んでいった人々を、自国のために立派に戦って死んでいったと考えるのではないか。そして、残された人々は、自分もまた、自国のために戦って死ぬべきなのではないか、と考えるのではないか。あるいは、戦うところまではいかなくとも、国に尽くすことはできる(海軍工廠に勤務したりして)。そうして死ぬことを考えるのではないか。なぜなら、そうしなければ、戦って死んでいった人々の死と、自分が生きているという事実が、釣り合わなくなってしまうからだ。

 この「釣り合い」をもっとわかりやすくするために、このように想像してみよう。現代の日本が、何かしらの理由で他国と全面戦争に突入してしまった、と。米軍と自衛隊だけでなく、一般市民の中からも徴兵することになったとする。そうして、あなたの親友が戦場に行くことになった。あなたはその時骨折していて、徴兵を免れたとする。親友は戦場に行き、後日、敵国の戦闘機のミサイルで爆死した。訃報が親友の家族に届き、その家族からあなたに連絡が行く。親友が戦死した、と。

 さて、戦争は目下進行中だ。そんな中、あなたはこたつでぬくぬくとみかんを食べながら、飼い猫とまったり過ごすことなどできるだろうか。テレビでは旅番組なんかやっていたりして、それを観ながら過ごすわけだ。あるいは、ひたすらゲームに熱中して徹夜してしまったり、川のせせらぎを聞きながらお花見をしたりしているかもしれない。あなたの親友は、敵国の戦闘機のミサイルで戦死したのにもかかわらず、あなたはこのように穏やかに生きているわけだ。

 なんなんだろう、この状況は? 親友が死んだのに、すぐそばにいたはずのあなたが生きているのはなぜか? 身近な人の死と、自分の生の不釣り合い。私が問題にしたいのは、この不釣り合いのことだ。この不釣り合いに直面したとき、人は自分の死を、自分の死のあるべき姿を、どのように考えてしまうのだろうか?

 おそらく、おそらくなのだけれども、『シーシュポスの神話』が書かれた背景には、このような、戦争を背景にした、生と死の不釣り合いがあったのではないか。だからこそ、『シーシュポスの神話』は自殺の話から始まるのだ。そしてこの本がすごいのは、人々を「自分の死のあるべき姿」から解放することなのである。

 本の中身にあまり触れないまま文章が長くなってしまったので、いったん稿を改めようと思う。今回はここまで。