「買った本くらい読めっつうの馬鹿!」
読んできた本について、自分の言葉で語れるものについてはぼちぼち書いてきたが、たまには、読むのをやめた本について書いてみるのもおもしろいかもと思い、記事を書いてみる。
ただ、なにせろくに読まずにほっぽりだした本について書くので、内容のあることは言えそうにない。人文系の書物を読むのに多少慣れた人間でもこんなものだと思っていただければ。念のため申し添えておくと、各コメントは非難、批判ではない。あしからず。
では、思いつくまま挙げてみる。とりあえず十冊くらい挙げてみようか。
1.『構造と力』(浅田彰、中公文庫)
最近ついに中公文庫で文庫化されて話題になった。
学生時代にパラパラっとめくり読めそうかアタリをつけてみたが、一行目から意味がわからず、結局読めず、文庫化の折に、「そういや昔読もうとしたっけな」と手に取って、パラパラっとめくり、そっと書店の本棚に戻した。やっぱり自分には一生縁がない書物だと悟った。
人によっては、中身の議論が非常に明晰だと感じるらしい。そういう人のための本なのだろう。自分のための本ではなかった。
『中世の覚醒』(リチャード・E・ルーベンスタイン、ちくま学芸文庫)や『天使はなぜ堕落するのか』(八木雄二、春秋社)がとても面白かったので、つられて勢いで買ってはみたものの、論証をゆっくり追っていくのがだるくて投げ出した本。『告白』(アウグスティヌス、中公文庫)は興味深く読めて、キリスト者の心の内とはこういうものなのかと思ったが、『神学大全』までは無理だった。
神の存在証明とかに興味がある人は読むのかな……。いずれにしろ、私のための本ではなかった。売却。
私の本棚で、唯一まともに読んだと言えるデリダの本は『言葉にのって』というインタビュー集であり、それ以外で彼が書いた本でまともに読めたものはない。高橋哲哉の『デリダ』は興味深く読んだが……。私の本棚には『言葉を撮る』(ジャック・デリダ+サファー・ファティ、青土社)もある。これはドキュメンタリー映像が見たいがために買った。ドキュメンタリー自体は何度も観るくらい好きだが、肝心の本は読んでいない。読む必要を感じないと言えば強がりで、単に、よく意味がわからない。この先わかるようになるのだろうか……。
『他者の単一言語使用』は、文庫化したのを知り、「読んでもよくわからないんだろうな」となかば諦めてはいたが、それでも諦めきれずに買ってしまい、やっぱりよくわからなかった。読める人が、日本のどこかにはいるのだろう。どこかには。
そんなどこかの人のために売却。
たしか途中まではがんばって読んでみたものの、話がしみったれすぎてて食傷気味になり、読むのをやめて売っ払ってしまった。『あさきゆめみし』(大和和紀)をkindleに入れて再チャレンジするも、それも途中で止まってしまっている。『あさきゆめみし』には再々チャレンジするかもしれないが、現状興味が湧かない。
冒頭10ページくらいで投げ出したことだけ覚えている。読んでてつらかった。
中公クラシックスに入っている『哲学的直観ほか』が読みやすくて面白かったので、いけるかと思い、冒頭のイマージュの話が呑み込めなくて投げ出した。『哲学的直観』の分析と直観を対比させる考え方はわかる気がするのに、そこにつながるはずのこの本のイマージュの話がついによくわからなかったのはなぜだろう。いまだにそれが、わからない。
舞城の作品はいくつか高校時代に読んだ。『煙か土か食い物』、『暗闇の中で子供』、『世界は密室でできている』あたりまでは読んでいた。特に『煙か土か食い物』は冒頭の書き出しに衝撃を受け、自分の日記の文体が影響を受けたのを覚えている。
『阿修羅ガール』はなぜ途中で投げてしまったか。使われている言葉が汚すぎるからだ。耐えられる人は耐えられるんだろう。私はだめだった。投げ出した理由とその時の印象をこれだけはっきり覚えている本はこの本だけだ。
売りに出すときに、本の終わりあたりをパラ見して、
「買った本くらい読めっつうの馬鹿!」
みたいな文言を見かけて、それがずうっと心に残り、読んで十数年経った今も覚えている(不正確な引用だったら申し訳ない)。でも、この一節だけで、この本は十分私にとって意味があったのかもしれない。いつ思い出しても耳に痛い痛い痛い。
そもそも人が読むために書かれた文章ではないので通読には不向き。おまけに字が小さい。自分には資料集程度の意味合いしかなく、どうしても参照しなきゃいけないときは図書館で借りようと割り切り、手元のものは売却した。
私は結局プラトンのほうが好きだ。
9.村上由佳のコーヒーなんちゃらシリーズ
高校時代、実は途中までおもしろく読んでいたが、「これなら少女漫画読めばよくね?」と気づき、読むのをやめた。今まで挙げた本と違って、読みにくいわけでは決してない。
10.『ハリーポッター』シリーズ(J・K・ローリング、静山社)
『ハリーポッターとアズカバンの囚人』まではさくさく読んでいたが、なぜか途中で止まってしまい、そうこうするうちに読む最適な年齢を過ぎて、今にいたる。いつか映画でちゃんと最後まで見ようと思っている。『ハリーポッターと賢者の石』は、私に読書の楽しさを教えてくれた本だ。初めて本に夢中になるという経験をしたのを覚えている。
と、つらつら十冊挙げてみた。途中で読むのをやめたと言っても、いろいろな段階がある。読まれることを拒んでいるように感じてやめた場合もあれば、途中までしっかり追えていたのにやめてしまったものもある。一冊の本の何が、読者の目を最後のページまで引っ張っていくのだろう? 本にだけ責任があるわけではなく、読もうとしたときの読者のコンディションの問題だってあるだろう。かといって、作家の責任を全部免責してしまうのも、ちがう気がする。結局はその両方であり、それを「縁」と言うのだろう。
と、結論めいたことを書いて、読まずに投げ出した本を供養したことにする。それでも、『阿修羅ガール』の箴言が、私の耳にはこだまするのだ。
「買った本くらい読めっつうの馬鹿!」