働きながら本を読んでいた人々は何を読んできたか ――『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆)読書録

タイトルと中身と主張が合っていない。それでいて一冊の本としてまとまってしまっている。そういう不気味な一冊が、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社新書)という本なのだ、というのが、まず私が述べたいことである。
タイトルは非常にキャッチ―で、かつて読書が好きだったが、働きだして本が読めなくなっている人たちが、ついつい手にとってしまうような、すばらしいタイトルだと思う。だからこそ多くの人が手に取り、読まれているのだと思う。
まえがきの部分でも、三宅氏自身が、社会人になってから、好きだった作家の新刊が追えていない、本を読んでいると目を閉じてしまう、ついついSNSやYoutubeを眺めてしまう、といった経験を綴っている。こういう部分に共感する方は多いだろう。仕事や生活のことで疲れているから、集中力を要請されるものが受け付けられなくなるということだ。
ならばどうすればよいのか、どういう考え方をしたらよいのか。
それを知りたい方は、本書の最終章とあとがきを読めば、三宅氏からの提案がそこに書かれているので、参照すればよいだろう。自分のすべてを何か(例えば仕事)に注ぎ込むようなコミットメントをやめる、「半身で働く」、そしてそれを踏まえたうえでの、ちょっとした読書のコツ、そういうことが書かれている。正直、わたしは最終章とあとがきの話に目新しさはあまり感じなかった。反対するというわけではない。それだけ地に足が着いているということでもある。
だが本書の幹の部分にはそういうことは書かれていない、つまり、疲れすぎて本が読めないときはどうしたらよいのかについては、書かれていない。そうではなく、幹の部分に書かれているのは、明治、大正、昭和のそれぞれの時代に働いていた人々が何を読んでいたのか、である。この幹の部分の話の方がおもしろく読めた。働いていても人々は本を読んでいた。しかし、これはタイトル詐欺ではないのである。
三宅氏は冒頭で本書を、「日本の近代以降の労働史と読書史を並べて俯瞰することによって、「歴史上、日本人はどうやって働きながら本を読んできたのか? そしてなぜ現代の私たちは、働きながら本を読むことに困難を感じているのか?」という問いについて考えた本」であると紹介している(p.22)。したがって、問題は現代の労働・読書環境であり、かつての労働・読書環境が今に至るまでどう変化してきたのか、である。だから、冒頭で私が書いた、「タイトルと中身と主張が合っていない」という評言は、厳密に言えば、間違っている。ちゃんとタイトルと中身と主張は合っているのである。合っているのだけれども、本書の読みどころはそこじゃない気がするのである。
話を戻すと、明治・大正・昭和の当時、働いていた人々は本を読めなかったわけではない。読んでいたのである。何を読んでいたか、何が熱心に読まれたのか、それはなぜか、といったことが本書の幹の部分に書かれている。たとえば第一章では、明治時代初期に、青年層の間で「立身出世主義」が広がり、『西国立志編』という自己啓発書がベストセラーになったいきさつが語られている。その本を評して曰く、
ここにはさまざまなサクセスストーリーが載っているが、ほとんどが「身分や才能ではなく、自分で努力を重ねたからこそ成功した」という教訓で締められている。身分ではなく日々の努力によって彼らは成功した。それしか言っていないに等しい。(中略)この本が世界中でベストセラーになった理由はその偉人のセレクトにあった。貴族は入れずに、あえて「ふつうの市民からなり上がった人」のみの伝記集にしたのだ……
(中略)
『西国立志編』が打ち出す「修養」の思想は、どこか現代の自己啓発書ジャンルに通じるところがある(大澤、前掲『「修養」の日本近代』)。現代の自己啓発書の研究をする牧野智和は、「自己啓発書は男性中心的なメディア」であることを指摘しているが(『自己啓発の時代――「自己」の文化社会学的探究』)、まさにその源流は明治時代からはじまっていたのだ。
つまり、現代の自己啓発書にも通じる「男性たちの仕事における立身出世主義のための読書」の源流はまさにここにあった。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社新書、pp.45-47)
『西国立志編』は、現代の自己啓発書にも通じる「男性たちの仕事における立身出世主義のための読書」の源流だった。なるほど、明治初期の人々は、働きながら自己啓発書を読んでいたのだ。
明治時代でこうなら大正時代ではどうだったか、三宅氏のまとめによると、
インテリ層の数も増え、読書人口も増えるなか、社会不安は増大していた。増税や不景気によって貧困層の数も増えた大正時代。ベストセラーには、その不安を救うための宗教や社会主義関連の書籍が入っていった。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社新書、p.62)
大正時代とはこんなにおそろしい時代だったのか……と思わされる。かと思えば、当時のサラリーマン層に読まれた『痴人の愛』(谷崎潤一郎)を、当時の状況を踏まえて三宅氏はこう評する。私がこの本で一番好きな箇所だ。
『痴人の愛』は、元はといえば「大阪朝日新聞」の連載小説である。当時の新聞の主なターゲットは、新中間層、つまりは毎日通勤するサラリーマンだった(山本武利『近代日本の新聞読者層』)。だとすれば、「田舎から出てきた真面目なサラリーマンが、カフェで働く美少女を引き取る」というあらすじは、まさに谷崎潤一郎がサラリーマンに向けて書いた妄想物語そのものだったのではないだろうか。
(中略)
さらに注目すべきは、谷崎が「譲治とナオミが出会った時期」として設定したのは1917年(大正6年)。小説連載開始時から7年前のことだった。考えてみてほしい。まさに、第一次世界大戦中の好景気の時代を、谷崎は小説の舞台にしているのだ。
谷崎の読者サービス、すごい……と感心してしまうのは私だけか。『痴人の愛』の冒頭をひとことで言ってしまえば、「田舎出身の真面目なサラリーマン(しかし絵に描かれた姿はかっこいい)が、まだ好景気だった時代に、カフェで美少女と出会う」話だ。――不景気に疲れたサラリーマンが朝刊で読む小説として、これほど癒されるものがほかにあるだろうか。サラリーマンという名の疲れた新中間層が読む新聞に『痴人の愛』が連載されていたのは、決して偶然ではない。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社新書、pp.67-69)
文豪と言われる谷崎潤一郎の古典小説も、三宅氏の分析を経ると、なんとも大衆的な欲望を反映したサラリーマン小説になってしまった。通勤するサラリーマンは電車の中だかで新聞を読み、そこで小説に出会っていた。そんなサラリーマン向けの癒し小説が、『痴人の愛』なのだ。
ともあれ、ほかにも第五章では、司馬遼太郎の小説を高度経済成長期のノスタルジーとして(第五章)、インターネットの登場、定着を、情報の重視(=ノイズの排除)として(第八章、第九章)読むなど、当時流行したベストセラーや情報環境の変化を、三宅氏は読み解いていく。本書の読みどころは、こういった読み解きにこそあり、どうしたら働きながら本が読めるようになるのか、といったところにはない、というのが、私が冒頭のところで述べた「タイトルと中身と主張が合っていない」ということの、パラフレーズである。