舟橋純の控え帖

まずノートだ、そこに見たもの、思ったことのすべてを書き入れる。そののちに分類して秩序づけ書き写せばいい。思考の簿記であって、そうすれば物事の関連性と、そこから生じる解明とが、きちんとした表現を見るだろう。(『リヒテンベルク先生の控え帖』より)。そういうブログです。

人間的意味、続く世代、ある男 ――『プレヴェール詩集』(岩波文庫)読書録

 あまりむずかしい主義主張をふまえた上で書いている詩人の詩は、読んでいても、わたしには、いまいちピンとこない。もちろん詩は、なんらかの意味の伝達が目的ではないにしろ、本当に混乱しているとしか感じられないような詩は、たいていの場合、読まれなくなり、歴史の片隅に消えていく。そういうものじゃないかと思う。

 手軽に読める、わかりやすい詩集はないかと探しているときに、本屋の本棚に『プレヴェール詩集』(岩波文庫小笠原豊樹訳)を見つけた。簡単に、この本について書こう。

 表表紙の紹介には、「恋愛映画の名脚本家であり、シャンソン「枯葉」の作詞家でもある、フランスの国民的詩人ジャック・プレヴェール(1900-77)」。なるほど、国民的詩人、ということは良い詩を書くんだろうし、多少はわかりやすいのかな。そう思って開いてみると、案外に暗い詩が目につくことに気付く。暗いというか、明るさがない。

 家族の唄

 おふくろが編物をする

 息子が戦争をする

 これは当然のこと とおふくろは思う

 それならおやじ おやじは何をする

 おやじは事業をする

 家内は編物

 息子は戦争

 わしは事業

 これは当然のこと とおやじは思う

 それなら息子 それなら息子は

 どう思う 息子は

 息子は何とも思わない 何とも

 おふくろは編物 おやじは事業 ぼくは戦争

 戦争が終ったら

 おやじと二人で事業をするだろう

 戦争がつづく おふくろがつづく 編物をする

 おやじがつづく 事業をする

 息子が戦死する 息子はつづかない

 おやじとおふくろが墓参りをする

 これは当然のこと とおやじとおふくろは思う

 生活がつづく 編物と戦争と事業の生活

 事業と戦争と編物と戦争の生活

 事業と事業と事業の生活

 生活と墓場が。

『プレヴェール詩集』(岩波文庫小笠原豊樹訳、pp.56-57)

 暗いとさえ言っていいのかわからない。この詩では、生活から抽出された単純な要素がひたすらに繰り返されている。「事業」と「戦争」と「編物」だ。それぞれの要素に対して、一切の思い入れというか、感傷めいた思いが排除されている。「おやじ」と「おふくろ」は「当然のこと」と思い、「息子」は「何とも思わない」。「おやじ」と「おふくろ」に関しては、「息子」が死んだのに、それを当然のことだとも思っている。ここにあるのは、本当に、ただただ続いていく「生活」だけ、人間的感情を排除された「生活」だけだ。……それは本当に生活なのか? この詩は詩本文の中から人間的感情を描く部分を極力排除することによって、逆説的に、わたしたちの本来の、抽象されていない生を映し出しているとも言えるだろう。人間的意味をはぎ取られた「生活」と「墓場」は、そんなものは、ほんとうの生活と墓場ではないのだ。

 かと思えば、こんなセクシーな詩もある。

 サンギーヌ

 ファスナーが稲妻のようにきみの腰を滑り

 きみの恋する肉体の幸福な嵐が

 くらやみのなかで

 爆発的に始まった

 きみの服は蝋引きの床に落ちるとき

 オレンジの皮が絨毯の上に落ちるほどの

 音も立てなかったが

 ぼくらの足に踏まれて

 小さな阿古屋貝のボタンは種のように鳴った

 サンギーヌ・オレンジ

 きれいなくだもの

 きみの乳房の尖端は

 ぼくのてのひらに

 新しい運命線を引いた

 サンギーヌ

 きれいなくだもの

 

 夜の太陽。

『プレヴェール詩集』(岩波文庫小笠原豊樹訳、pp.134-135)

 実にベタな詩で、上に引用した詩とは雰囲気がずいぶんと違う。どれだけ急いでファスナーを下げれば「稲妻のようにきみの腰を滑」るほどになるというのか。恋人たちがお互いを求める勢いは、実に性急だ。素直に読めばよい詩なので、あまり書くことはないが、わたしはきらいではない。90年代のJ-popにこういう歌詞の歌があってもおかしくない。

 もうひとつ紹介しよう。「鰯の缶詰を作る女工の唄」。

 鰯の缶詰を作る女工の唄

 まわれ まわれ

 むすめたち

 工場のまわりをまわれ

 もうじききみらは中に入る

 まわれ まわれ

 漁師のむすめたち

 百姓のむすめたち

 

 きみらのゆりかごをおとずれた仙女たち

 その仙女を金で雇ったのは

 お屋敷に住むひとたち

 仙女は未来の話をしたが

 未来はそれほどすてきじゃなかった

 

 きみらの一生は不幸だろう

 子供をたくさん生むだろう

 たくさん たくさん

 その子供らの一生も不幸だろう

 子供をたくさん生むだろう

 その子供らの一生も不幸だろう

 子供をたくさん生むだろう

 たくさん たくさん

 その子供らの一生も不幸だろう

 子供をたくさん生むだろう

 子供をたくさん

 たくさん たくさん……

 

 まわれ まわれ

 むすめたち

 工場のまわりをまわれ

 もうじききみらは中に入る

 まわれ まわれ

 漁師のむすめたち

 百姓のむすめたち

『プレヴェール詩集』(岩波文庫小笠原豊樹訳、pp.136-138)

 「お屋敷に住むひとたち」が作った、鰯の缶詰工場で働く女工たち。彼女らの休憩時間の様子なのだろうか。その女工たちが遊び舞う光景を「仙女」に見立てて唄った詩、とわたしは解釈した。

 「漁師のむすめたち」「百姓のむすめたち」である彼女らは、楽し気に未来の話をしていたのだろう。詩の語り手は、しかし、彼女らの「未来はそれほどすてきじゃなかった」と言っている。工場で苦労して働いて、ゆくゆくは結婚し、子供を儲けていく。人生の折々でも、様々な苦労があるだろう(子育てとか嫁姑問題とか)。そんな人生の流れが、当時の田舎暮らしの女性の、ごくふつうのなりゆきだったのかもしれない。とはいえ、語り手によって「不幸だろう」と言われている彼女らの人生は、その子供の世代につながり、その次の、次の次の世代の、さらにそのまた次の世代へと、順繰りにつながっていく。不幸だ不幸だとぶつぶつ文句を言いつつも、なんだかんだ平凡に過ぎていく彼女たちの生が、目に浮かぶようだ。詩人はそういった彼女たちの姿を、おおらかに「まわれ まわれ」と歌いあげている。そういうふうに読むと、プレヴェールが国民的詩人と言われるゆえんも、わかる気がする。

 最後に、本を読むことにまつわる、おもしろい詩を紹介しよう。「ある男」という詩だ。

 ある男

 男が家を出る

 早朝

 悲しい男

 見るからに悲しい男

 ふと ゴミ箱のなかに

 古い世界商工年鑑を見つける

 人は悲しいとき時間をつぶすもの

 この男も年鑑を手にとり

 ゴミを払って何気なくページをめくる

 世のことどもが並んでいる

 この男が悲しいのは名前がデュコンだから

 男はページをめくる

 ページをめくりつづけて

 Dのページでふととまり

 DUデュの欄をみつめる……

 男の悲しいまなざしが楽しげになる明るくなる

 だれも

 ほんとにだれもこんな名前の奴はいない

 おれはたった一人のデュコン

 そうつぶやいて

 本を投げ棄て手の埃を払い

 誇らしげに てくてく歩きはじめる

 

 編集部註「デュコン」は「ばか」(コン)に通じ、「どあほう」(デュコン)の意味もある。

『プレヴェール詩集』(岩波文庫小笠原豊樹訳、pp.208-209)

 よく「キラキラネーム」とか、「悪魔(デビル)」なんていうふざけた名前をつけられた、実にかわいそうな子(子供にそんな名前をつけてしまう愚かな親)の話があがるが、この詩のデュコンはきわめつけだ。なんせフランス語で「どあほう」の意味に通じてしまう名前なのだから。たまったもんじゃない。

 そんなデュコンが古い世界商工年鑑、要は誰も読まないような本を手にとって、自分の名前をそこに探す。そこに自分を見つけるためではない。そこに自分が載っていないことを見つけるために、彼はそれを読んでいるのである。「ほんとにだれもこんな名前の奴はいない」。それで彼はよろこんでしまうのである。「おれはたった一人のデュコン」。そこに自分を見ないことによって、自分の唯一性を確認する男。確認できたらもう、本はデュコンには用済みだった。

 はたして、詩人はこの詩にどんなメッセージを込めたのだろう? デュコン(どあほう)と名付けられている彼が象徴する愚かさはなんだろう? わたしは、彼が、自分の名前が載っていないことによろこんでしまう、そこが彼の愚かさなんだ、というメッセージだと受け止めた。以前『読んでいない本について堂々と語る方法』という本について書いたときに、読者というのは、本を読むことでそこに自己を見出す、という話をした。そのときの話とは対照的に、デュコンは彼自身を、本の中に見出さないことによって、自分の唯一性を再確認する。おそらく「古い世界商工年鑑」じゃなくても、なんでもいいが、彼はどんな本を読んでも、そこに自分を見出さないことによってよろこんでしまうのではなかろうか。わたしにはそう思えるのだ。何を読んでも他者と共有できるようなものを見出さない、と言い換えてみると、そのさびしさ、悲しさが具体的になる気がする。たしかに、彼は「悲しい男」なのかもしれない。

 

 プレヴェールが描く詩の中に(彼のすべての詩の中に、というわけではないが)、わたしも自分の姿をみる思いがした。はたから見て、その姿が「悲しい男」でなければ、いいのだけれども。